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最後に信じた嘘~宿敵の御曹司だけが私を裏切らない~
最後に信じた嘘~宿敵の御曹司だけが私を裏切らない~
Author: 八月 猫

第1話 崩れ始めた計画

Author: 八月 猫
last update publish date: 2026-09-12 10:37:54

「先方から正式に連絡が入りました。今回の出資については、いったん白紙に戻したいとのことです」

会議室の空気が、目に見えない重さを伴って沈んだ。

九条澪くじょうみおは手元の資料から顔を上げた。長机を挟んで並ぶ責任者たちは、誰も彼女と目を合わせようとしない。窓の向こうには昼前の東京が広がり、つい数日前までなら、その景色を眺めながらこの計画の完成後を思い描く余裕さえあった。

今はもう、そんなものはない。

九条ホールディングスが三年前から進めてきた大規模複合開発事業。その中核を担う新エリアの再開発プロジェクトは、ここ二週間で急速に歯車が狂い始めていた。

主要取引先の一社が突然条件の見直しを要求し、続いて資材調達先が契約更新を保留。さらに今朝になって、資金面を支える予定だった企業から出資撤回の申し入れまで届いた。

偶然と呼ぶには、あまりにも重なりすぎている。

「理由は?」

澪が尋ねると、財務担当の男は資料へ視線を落としたまま答えた。

「市場環境の変化と、事業収益性への懸念とのことです。ただ……先週の打ち合わせまでは、特にそういった話は出ていませんでした」

「では、一週間で判断が変わるだけの何かがあったということですね。先方とのやり取りを全部洗い直してください。メールだけでなく、面談記録と電話の報告書もお願いします」

「分かりました」

声を荒らげる必要はなかった。

誰かを責めたところで、出資が戻ってくるわけではない。

問題なのは、なぜこうなったのか。そして次に何が起きるのか。それを掴まない限り、ひとつ塞いでも別の場所から崩れていく。

澪は机上の資料をめくり、直近一か月の進捗表に目を走らせた。

数字そのものに大きな異常はない。少なくとも、表面上は。

だからこそ気味が悪かった。

「契約管理の方は?」

「再確認しています。ただ、先方から提示された変更条件について、法務から少し気になる点があると」

「今日中に共有してください。小さなことでも構いません。今は『関係ないだろう』という判断をしないでください」

担当者が頷く。

その瞬間、会議室の扉が控えめに叩かれた。

入ってきた秘書が、澪のそばまで歩み寄る。

「本部長。社長がお呼びです」

「今?」

「はい。会議が終わり次第、社長室へ来るようにとのことです」

わずかに間を置いて、澪は「分かりました」と答えた。

嫌な予感がした。

この状況で父が自分を呼ぶ理由など、そう多くはない。

会議を予定より十五分早く切り上げ、澪はそのまま最上階の社長室へ向かった。

廊下を歩きながら、窓ガラスに映る自分の姿が目に入る。朝きちんと整えたはずの髪は少し乱れ、目の下には薄く疲労が残っていた。

それでも立ち止まるつもりはない。

この案件は、父から初めて大きな裁量を任された仕事だった。

九条家の娘だから与えられたと言う人間もいる。次期後継者として実績を作らせるための舞台だと陰で笑う者もいる。

それなら結果を出せばいい。

そう思って、ここまで来た。

社長室へ入ると、父――九条宗一郎そういちろうはデスクではなく応接スペースに座っていた。

そして、その向かい側には見知らぬ男がいた。

年齢は三十を少し越えたくらいだろうか。黒に近い髪を短く整え、濃紺のスーツを隙なく着こなしている。派手さはないのに、不思議と目を引いた。

男は澪が入ってきたことに気づくと立ち上がり、軽く会釈した。

「紹介しよう」

宗一郎の声に、澪は父へ視線を向ける。

「プロジェクトの立て直しに、外部の人間を入れることにした」

一瞬、意味を理解するのが遅れた。

「……外部の?」

「今のままでは手が足りない。お前一人に責任を負わせるつもりもない」

それは気遣いの言葉にも聞こえる。

だが同時に、今の自分では足りないと言われているのと同じだった。

澪は感情を表に出さないよう息を整え、改めて男を見る。

「高城怜司たかしろれいじです」

差し出された名刺には、独立系の経営支援会社の肩書と、企業再生・事業再編アドバイザーという文字が並んでいた。

「企業再生と大型事業の再構築を中心に担当しています。今回の件については、すでに概要を拝見しました」

穏やかな口調だった。

丁寧で、隙もない。

だからこそ、続いた言葉が妙に耳に残った。

「率直に申し上げれば、かなり危険な状態です。少なくとも、通常の事業上のトラブルが偶然重なっただけとは考えにくいでしょう」

澪の眉がわずかに動く。

「まだ資料を見ただけですよね?」

「はい」

怜司は否定しなかった。

「ですが、二週間という短期間に主要取引先、資金、調達の三方向から同時に問題が出ています。偶然と判断する方が、むしろ不自然です」

澪は男を見つめた。

初対面。

それなのに、ずいぶん踏み込んだことを言う。

「つまり、私たちの進め方に問題があると?」

「その可能性も調べます」

怜司は微かに目を細めた。

「ただし、九条さんの判断だけを疑うつもりはありません。問題が内部にあるとも、外部にあるとも、まだ決まっていませんので」

丁寧な言葉だった。

だが、何一つ遠慮していない。

澪は少しだけ顎を上げた。

「分かりました。必要な資料はこちらで準備します。ただし、最終判断は私がします。この案件の責任者は私ですから」

「もちろんです」

怜司はあっさりと頷いた。

その口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだように見えた。

「その方が助かります。責任者が判断を放棄している案件ほど、立て直しに時間がかかりますから」

褒められたのか、試されたのか。

澪にはまだ分からなかった。

ただ一つだけ確かなことがある。

この男とは、たぶん簡単には噛み合わない。

このときの澪は、まだ知らなかった。

高城怜司がこの会社へ来た本当の理由も。

自分の目の前で静かに名刺を差し出した男が、九条を救うためではなく――奪うために送り込まれた人間だということも。

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