LOGIN
「先方から正式に連絡が入りました。今回の出資については、いったん白紙に戻したいとのことです」
会議室の空気が、目に見えない重さを伴って沈んだ。
今はもう、そんなものはない。
九条ホールディングスが三年前から進めてきた大規模複合開発事業。その中核を担う新エリアの再開発プロジェクトは、ここ二週間で急速に歯車が狂い始めていた。
主要取引先の一社が突然条件の見直しを要求し、続いて資材調達先が契約更新を保留。さらに今朝になって、資金面を支える予定だった企業から出資撤回の申し入れまで届いた。
偶然と呼ぶには、あまりにも重なりすぎている。
「理由は?」
澪が尋ねると、財務担当の男は資料へ視線を落としたまま答えた。
「市場環境の変化と、事業収益性への懸念とのことです。ただ……先週の打ち合わせまでは、特にそういった話は出ていませんでした」
「では、一週間で判断が変わるだけの何かがあったということですね。先方とのやり取りを全部洗い直してください。メールだけでなく、面談記録と電話の報告書もお願いします」
「分かりました」
声を荒らげる必要はなかった。
誰かを責めたところで、出資が戻ってくるわけではない。
問題なのは、なぜこうなったのか。そして次に何が起きるのか。それを掴まない限り、ひとつ塞いでも別の場所から崩れていく。
澪は机上の資料をめくり、直近一か月の進捗表に目を走らせた。
数字そのものに大きな異常はない。少なくとも、表面上は。
だからこそ気味が悪かった。
「契約管理の方は?」
「再確認しています。ただ、先方から提示された変更条件について、法務から少し気になる点があると」
「今日中に共有してください。小さなことでも構いません。今は『関係ないだろう』という判断をしないでください」
担当者が頷く。
その瞬間、会議室の扉が控えめに叩かれた。
入ってきた秘書が、澪のそばまで歩み寄る。
「本部長。社長がお呼びです」
「今?」
「はい。会議が終わり次第、社長室へ来るようにとのことです」
わずかに間を置いて、澪は「分かりました」と答えた。
嫌な予感がした。
この状況で父が自分を呼ぶ理由など、そう多くはない。
会議を予定より十五分早く切り上げ、澪はそのまま最上階の社長室へ向かった。
廊下を歩きながら、窓ガラスに映る自分の姿が目に入る。朝きちんと整えたはずの髪は少し乱れ、目の下には薄く疲労が残っていた。
それでも立ち止まるつもりはない。
この案件は、父から初めて大きな裁量を任された仕事だった。
九条家の娘だから与えられたと言う人間もいる。次期後継者として実績を作らせるための舞台だと陰で笑う者もいる。
それなら結果を出せばいい。
そう思って、ここまで来た。
社長室へ入ると、父――九条
そして、その向かい側には見知らぬ男がいた。
年齢は三十を少し越えたくらいだろうか。黒に近い髪を短く整え、濃紺のスーツを隙なく着こなしている。派手さはないのに、不思議と目を引いた。
男は澪が入ってきたことに気づくと立ち上がり、軽く会釈した。
「紹介しよう」
宗一郎の声に、澪は父へ視線を向ける。
「プロジェクトの立て直しに、外部の人間を入れることにした」
一瞬、意味を理解するのが遅れた。
「……外部の?」
「今のままでは手が足りない。お前一人に責任を負わせるつもりもない」
それは気遣いの言葉にも聞こえる。
だが同時に、今の自分では足りないと言われているのと同じだった。
澪は感情を表に出さないよう息を整え、改めて男を見る。
「
差し出された名刺には、独立系の経営支援会社の肩書と、企業再生・事業再編アドバイザーという文字が並んでいた。
「企業再生と大型事業の再構築を中心に担当しています。今回の件については、すでに概要を拝見しました」
穏やかな口調だった。
丁寧で、隙もない。
だからこそ、続いた言葉が妙に耳に残った。
「率直に申し上げれば、かなり危険な状態です。少なくとも、通常の事業上のトラブルが偶然重なっただけとは考えにくいでしょう」
澪の眉がわずかに動く。
「まだ資料を見ただけですよね?」
「はい」
怜司は否定しなかった。
「ですが、二週間という短期間に主要取引先、資金、調達の三方向から同時に問題が出ています。偶然と判断する方が、むしろ不自然です」
澪は男を見つめた。
初対面。
それなのに、ずいぶん踏み込んだことを言う。
「つまり、私たちの進め方に問題があると?」
「その可能性も調べます」
怜司は微かに目を細めた。
「ただし、九条さんの判断だけを疑うつもりはありません。問題が内部にあるとも、外部にあるとも、まだ決まっていませんので」
丁寧な言葉だった。
だが、何一つ遠慮していない。
澪は少しだけ顎を上げた。
「分かりました。必要な資料はこちらで準備します。ただし、最終判断は私がします。この案件の責任者は私ですから」
「もちろんです」
怜司はあっさりと頷いた。
その口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだように見えた。
「その方が助かります。責任者が判断を放棄している案件ほど、立て直しに時間がかかりますから」
褒められたのか、試されたのか。
澪にはまだ分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
この男とは、たぶん簡単には噛み合わない。
このときの澪は、まだ知らなかった。
高城怜司がこの会社へ来た本当の理由も。
自分の目の前で静かに名刺を差し出した男が、九条を救うためではなく――奪うために送り込まれた人間だということも。
翌朝、澪はいつもより三十分早く出社した。十八階の執務フロアはまだ静かで、照明も半分しか点いていない。昨夜までなら、この時間の静けさを落ち着くものだと思えたはずだった。けれど今は、誰もいない机の並びさえ違って見える。自分がいない夜、この場所を誰かが歩いていた。しかも、自分の社員証を使って。澪は本部長室へ入り、机の引き出しに社員証を置いた。もちろん昨夜のうちに情報システム部で確認済みだ。カードそのものに異常はなく、今も通常どおり使用できる。だからこそ気味が悪い。ほどなくして怜司が現れた。「早いですね」「高城さんに言われたくありません」昨夜、最後まで会議室に残っていたのは怜司だった。睡眠を取っているのか疑いたくなるが、本人はいつもと変わらない顔をしている。怜司は机の上へ薄いファイルを置いた。「一つ、試したいことがあります」澪は表紙に目を落とした。『資金調達条件 再交渉案』「本物ですか?」「半分だけです」怜司は椅子へ座り、ファイルを開いた。内容は現在進めている資金調達交渉を前提に作られている。ただし、先方へ提示する予定のない条件が一つだけ混ぜられていた。追加担保として、九条グループが保有する都心部の不動産を設定するという案。実際には検討すらされていない。「これを共有フォルダへ?」「はい。昨日不正アクセスされた資料と同じ権限設定にして置きます。もし誰かが九条さんの権限を監視しているなら、興味を持つ可能性があります」澪は資料を閉じた。「わざと偽情報を流すんですね」「正確には、流れるかどうかを確認します。ただし、この内容を知る人間は最小限にします。九条さん、私、情報システム部の担当者。それだけです」「もし外に出たら?」「内部から漏れていることが、ほぼ確定します」澪は少し考えた。自分の会社で、社員を疑うための餌を置く。気分のいい方法ではない。けれど、疑わずに済む状況はもう過ぎていた。「分かりました。やりましょう」午前九時過ぎ、偽の再交渉案が共有フォルダへ保存された。そこから先は、何も起きない時間が続いた。澪は通常どおり会議に出席し、プロジェクトの進捗を確認し、取引先との電話にも応じた。知らないふりをするというのは、思っていた以上に神経を使う。誰かと話すたびに、この人は知っているのだろうかと考えてしまう。長く一緒に働
「まず確認しておきたいことがあります」怜司の声に、澪はようやく資料から顔を上げた。自分の名前が並ぶアクセス記録を見つけてから、すでに十分近くが経っている。その間にも頭の中では、考えたくもない可能性ばかりが増えていた。「このアカウントは、パスワードだけで入れますか?」「いいえ。社内端末からなら社員証による認証も必要です。役員権限のファイルには追加認証もあります」「では、単純にパスワードが漏れただけでは説明できませんね」怜司はそう言って、情報システム部から届いた記録をもう一度確認した。深夜一時四十七分。東京本社。九条澪の権限で資金調達関連の資料が閲覧されている。その三日前にも同じような記録があった。澪はその日の予定を手帳で確認した。どちらも東京にはいない。片方は大阪、もう片方は名古屋でグループ会社との打ち合わせに出席していた。偶然にしては出来すぎている。「本部長」会議室の扉が開き、情報システム部の担当者が入ってきた。「確認できました。アクセス元はいずれも本社十八階です」十八階。経営戦略本部と役員会議室のあるフロアだった。澪は無意識に背筋を伸ばした。「端末までは特定できますか?」「一件は経営戦略本部の共用端末です。もう一件は……本部長室の端末でした」言葉が途切れた。澪は聞き返さなかった。聞き間違いではないことくらい、担当者の表情を見れば分かる。「私の部屋に入った人間の記録は?」「今、総務と照合しています。ただ……」担当者は一瞬、怜司へ視線を向け、それから澪に戻した。「本部長室の入退室ログでは、本部長の社員証が使われています」澪は何も言えなかった。自分はその時間、大阪にいた。それなのに東京本社では、自分の社員証が使われ、自分の部屋に入り、自分の権限で資料が閲覧されている。まるで、もう一人の九条澪がいたようだった。「社員証の複製は可能ですか?」怜司が尋ねる。「通常は困難です。ただ、絶対に不可能とは言い切れません。それに、役員用カードは紛失時の再発行記録も厳しく管理していますので、もし複製されているなら――」「内部事情に相当詳しい人間ですね」怜司が静かに言葉を継いだ。担当者は否定しなかった。澪は椅子の背にもたれず、机の上で両手を組んだ。怖いとは思わなかった。少なくとも、今は。それよりも先に腹が立った
午後三時を回った頃、澪のもとに追加資料が届いた。怜司が午前中に依頼していた、プロジェクト共有フォルダのアクセス記録と、直近一か月に更新された契約関連ファイルの履歴だった。本来なら情報システム部へ正式な照会をかけるだけでも時間がかかる。それが数時間で揃ったのは、宗一郎から今回の調査を最優先にするよう指示が出ていたからだろう。澪は会議室の端に積まれた資料へ目を落とした。「ここまで見る必要がありますか?」向かいに座った怜司は、手元のノートパソコンから顔を上げた。「必要がなければ、それが一番です」相変わらず、答えているようで安心させる気はまるでない。「何も出なければ、内部から情報が漏れている可能性を一つ消せます。出れば、次に調べる場所が分かる。それだけです」澪は小さく息を吐き、アクセス記録を手に取った。閲覧者、更新日時、ファイル名。無機質な文字列が何ページにも並んでいる。この中に何かがあると言われても、澪にはすぐ見分けがつかなかった。怜司はしばらく画面を確認したあと、数枚の記録を抜き出して机の中央へ置いた。「この三つを見てください」澪は促されるまま視線を落とした。一つ目は資金調達条件に関する内部資料。二つ目は主要取引先との契約改定案。三つ目は、まだ取締役会にも提出されていない事業収支の修正版だった。「全部、今回問題になっている資料ですね」「はい。それと、もう一つ共通点があります」怜司の指が更新日時を順番に示した。どのファイルも、正式な共有より前に一度閲覧されている。それ自体は珍しいことではない。作成担当者や承認者なら、完成前の資料を見ることもある。だが、表示された時刻に澪は眉を寄せた。午前一時四十七分。午前二時十二分。午前三時五分。「ずいぶん遅い時間ですね」「残業熱心な方が多い会社なら説明できますが」「うちは深夜の社外アクセスに制限があります」「だから確認しました」怜司が別の紙を差し出した。「いずれも社内ネットワーク経由です」澪の指が止まった。つまり、その時間に誰かが社内にいたことになる。九条ホールディングス本社は深夜帯になると入退館記録が厳格に管理される。社員証を使わずに執務フロアへ入るのは難しい。「入館記録も照合できます」澪が言うと、怜司はすぐには頷かなかった。「できます。ただ、先に閲覧者を絞りま
高城怜司がプロジェクトチームへ加わった翌朝、澪のデスクには見慣れない付箋の貼られた資料が積み上がっていた。昨夜、自分が退社したあとに提出されたものらしい。昨年度からの事業計画書、資金調達に関する資料、取引先との契約一覧、直近半年分の進捗報告。どれも澪自身が何度も目を通してきたものだったが、付箋には細かな数字や日付が書き込まれ、そのいくつかには赤い線まで引かれていた。「……これ、全部高城さんが?」向かいの席にいた担当者へ尋ねると、困ったような顔で頷かれた。「昨日、本部長がお帰りになったあとからずっと確認されていたみたいです。必要なものがあれば追加で出してほしいと」澪は時計を見た。まだ午前八時半だった。昨日、怜司と別れたのは午後七時を過ぎていたはずだ。そこからこの量に目を通したのだとすれば、少なくとも形式だけ整えてきた人間ではないらしい。だからといって、素直に感心する気にもなれなかった。最上部の資料を開くと、一枚目から大きく囲われた数字が目に入った。三か月前に提出された資材調達費の試算額と、一か月前に更新された見積額。差額は約七パーセント。資材価格の高騰を考えれば、異常と呼ぶほどの数字ではない。ただし、その横には短く一文が書かれていた。――上昇率に対し、内訳の変動が一致していない。澪はページを戻し、細かな明細を追った。確かに奇妙だった。価格が上がっている品目と、実際に見積総額を押し上げている品目が噛み合っていない。「気づきましたか」突然背後から声がして、澪は振り返った。怜司がコーヒーを片手に立っていた。昨日と同じように濃紺のスーツを隙なく着こなし、その表情には寝不足らしい気配すら見えない。「これ、高城さんが?」「はい。まだ確定ではありませんが、少なくとも説明は必要でしょう」怜司は澪の手元を覗き込むでもなく、自分の席へ資料を置いた。「単価の上昇自体は不自然ではありません。ただ、値上がりしたはずの資材より、別項目の調整費や管理費の方が大きく増えています。しかも複数の取引先で、ほぼ同じ時期に」「偶然ではないと?」「そこまでは申し上げていません」即答だった。澪が視線を向けると、怜司は淡々と続けた。「疑うのは簡単ですが、根拠もなく不正だと決めつければ、こちらの方が立場を悪くします。まずは契約更新時の見積書と、実際の発注記録
「先方から正式に連絡が入りました。今回の出資については、いったん白紙に戻したいとのことです」会議室の空気が、目に見えない重さを伴って沈んだ。九条澪は手元の資料から顔を上げた。長机を挟んで並ぶ責任者たちは、誰も彼女と目を合わせようとしない。窓の向こうには昼前の東京が広がり、つい数日前までなら、その景色を眺めながらこの計画の完成後を思い描く余裕さえあった。今はもう、そんなものはない。九条ホールディングスが三年前から進めてきた大規模複合開発事業。その中核を担う新エリアの再開発プロジェクトは、ここ二週間で急速に歯車が狂い始めていた。主要取引先の一社が突然条件の見直しを要求し、続いて資材調達先が契約更新を保留。さらに今朝になって、資金面を支える予定だった企業から出資撤回の申し入れまで届いた。偶然と呼ぶには、あまりにも重なりすぎている。「理由は?」澪が尋ねると、財務担当の男は資料へ視線を落としたまま答えた。「市場環境の変化と、事業収益性への懸念とのことです。ただ……先週の打ち合わせまでは、特にそういった話は出ていませんでした」「では、一週間で判断が変わるだけの何かがあったということですね。先方とのやり取りを全部洗い直してください。メールだけでなく、面談記録と電話の報告書もお願いします」「分かりました」声を荒らげる必要はなかった。誰かを責めたところで、出資が戻ってくるわけではない。問題なのは、なぜこうなったのか。そして次に何が起きるのか。それを掴まない限り、ひとつ塞いでも別の場所から崩れていく。澪は机上の資料をめくり、直近一か月の進捗表に目を走らせた。数字そのものに大きな異常はない。少なくとも、表面上は。だからこそ気味が悪かった。「契約管理の方は?」「再確認しています。ただ、先方から提示された変更条件について、法務から少し気になる点があると」「今日中に共有してください。小さなことでも構いません。今は『関係ないだろう』という判断をしないでください」担当者が頷く。その瞬間、会議室の扉が控えめに叩かれた。入ってきた秘書が、澪のそばまで歩み寄る。「本部長。社長がお呼びです」「今?」「はい。会議が終わり次第、社長室へ来るようにとのことです」わずかに間を置いて、澪は「分かりました」と答えた。嫌な予感がした。この状況







